YYOSHIMOTO MUSIC CO.,LTD.

ASH

1989-1991:北アイルランド、ダウン州、ダウンパトリック。中学に入学したティモシー・ジェイムス・アーサー・ウィーラーとマーク・アレクサンダー・ハミルトンは12歳の時に出会う。サッカーがどうしようもなく下手だった2人は音楽の道を選び最高の冒険に出るも、アイアン・メイデンの真似っこバンド「ヴェトナム」のギタリストとベーシストとして地元で「ダウン州一酷いバンド」と酷評される。 
 
1992:グランジ人気が頂点に達すると共に「ヴェトナム」は解散。ドラマーに窮した彼等は、カウボーイ・ブーツを履いた教会の太鼓奏者だったリチャード・ウィルソン・マックマーレイ(16歳)を迎え入れる。辞書の中から自分達が気に入った最初の短い単語を選びアッシュが誕生する。ニルヴァーナ、マッドハニー、ピクシーズ、そして地元のパンク先駆者である『レイザーガン・ナン』に触発され、我らがティーンエイジ・ヒーロー達はベルファストとダウンパトリックのライヴハウスで毎週ライヴを行い、その評価も「スーパー・ティーン・パンク・ポップ・マシーン」へと変わっていく。曲を次々と量産した彼らは昼休みを空腹で過ごし、また一度は売店を騙し貯めた軍資金で数えきれない程のデモを作る。 
 
1993:アッシュの3本目のデモテープ「ガレージ・ガール」は地元チャートの1位を飾り、マークは学校の「若者の活動支援プログラム」の援助を得てバンドとして初めてのシングル盤をプレスする。これらの成果にも関わらず、バンドは行き詰まりを感じるようになる。卒業試験の陰がちらつく中、音楽業界が全く存在しない国で一体どうやってレコード契約が得られるのか不安を覚える。まだマイスペースなんて存在しなかったのだから!そんな不毛な状況の中、ティムは休みの間に永遠に色あせることのない名曲「ガール・フロム・マーズ」を書く。バンドが解散に向かおうとした時、地元のやり手のビル・マッカベが彼等を若い男娼としてロンドンの知り合いにデモテープと共に売り込む。PRマンのバディ・デーヴィスとラジオ宣伝マンのスティーヴン・タヴェルナは送られてきたそのテープの虜になる。タヴェルナに至っては、バンド宛にスタジオに入る為の300ポンドを送るという思い切った行動に出る。 
 
1994:バンドのデビュー・シングル「ジャック・ネイムス・ザ・プラネッツ」はタヴェルナの新設したラ・ラ・ランド・レーベルからリリースされ、BBCラジオ1に取り上げられ、スティーヴ・ラマック、ジョン・ピール、マーク・ラドクリフといった影響力のあるDJ達に注目される。その数ヶ月後、若干17歳のバンドの運命が決まる。インフェクシャス・レコードと契約を結ぶのである。その後カムデン・ファルコンでロンドンでの初ライヴを行う。全て復活祭休み中に遂行される。夏にはロンドンでプロデューサーのマーク・ウォーターマンと共に1週間の強行レコーディングが行われ、インフェクシャスから最初にリリースされた「ペトロール」と「アンクル・パット」の両シングルともUKインディー・チャートの1位となる。ミニ・アルバム『トレイラー』も10月にリリースされ、バンドはインディのジェネレイター・レコーズから「ペトロール」の限定シングルを出し全米デビューも果たす。 
 
1995:3月にティムが武道の英雄ジャッキー・チェン及びラモーンズに捧げた「カンフー」がインフェクシャスからリリースされる。エリック・カントナの有名な飛び蹴りがジャケットに使われる。「お前達のレコードに唾を履いた」と怒った本人からレーベルにファックスが届く。6月に高校を卒業した後、UK全土のソールドアウト・ツアーに出ると、「ガール・フロム・マーズ」がチャートのトップ20に飛び込み、ティムは真に優れたポップ・ソングを書くソングライターとしての地位を確立する。地元では、息子達がBBCの『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出るのを信じられないといった様子で両親達が見守る。バンドはアメリカでワーナー・レコーズと契約を交わし、NASAが「ガール・フロム・マーズ」を電話の保留音として使用!「カンフー」もまた、ジャッキー・チェン本人の知るところとなり、映画『ランブル・イン・ザ・ブロンクス』のエンドロールで使われる。初めてのレディング・フェスティバルでのライヴは、危険なほど人が詰めかけ過ぎた為に2度も中断される。バンドは初めてのワールド・ツアーを行い、3枚目のシングル「エンジェル・インターセプター」のリリースと短いながらも目の回るようなUKツアーと共にバンドの躍進はさらに続く。 
 
1996:一匹狼プロデューサーのオーウェン・モリスと共に3ヶ月ロックフィールド・スタジオで過ごした後、バンドはデビュー・アルバム『1977』を完成させる。1977はティムとマークが生まれた年であり、『スター・ウォーズ』が公開された年でもある。アルバムはUKチャートで初登場1位に輝き、彼等の虚無主義的十代の猛威はマスコミに一大旋風を巻き起こし、彼等が表紙のスマッシュ・ヒッツ誌、NME誌、セレクト誌、そしてケラング誌が店頭に並ぶ。1996年の夏はアッシュのものとなる。彼等はチャートのトップ5に「ゴールドフィンガー」と「オー・イエー」の2曲を送り込み、ロンドンのアストリアで5夜連続のソールドアウト公演を行う。夏フェス・シーズンはレディングで6万人を超える日焼けした身体によるその夏のアンセム「オー・イエー」の大合唱で最高潮に達する。ツアーでの彼等のやんちゃ振りは映像に収められている。ユアン(オビ・ワン)マクレガーがナレーションを務めるこの自己資本映画『ティーンエイジ・ワイルドライフ』は、家族から絶縁される怖れがある為公開されていない。『1977』は世界中で100万枚を超えるヒットとなる。 
 
1997:1997年6月のグラストンベリー。泥まみれとスティーヴ・ウィンウッドのドタキャンの年である。現場では、既に金曜日の夜にアザー・ステージのトリを務めたアッシュにマイケル・イーヴィスが歴史を塗り替える話を持ちかける。アッシュは日曜日のピラミッド・ステージの大トリを務め、この巨大フェスティバルで同年に2度トリを務めた初めてのアーティストとなる。ロンドンのバンド、ナイトナースから引き抜いた新しいギタリストのシャーロット・ハザレイの加入で3人が4人になる。4万人の観客を前にしたV97フェスティバル、そしてU2の「ポップ」ツアーの巨大セットの下で行ったベルファスト公演とダブリン公演が彼女の初ライヴとなる。アーサー・ベイカー、プロデュースの同名映画の為に書かれたシングル「ライフ・レス・オーディナリー」がチャートのトップ10に入り、1977の章の終わりを飾る。 
 
1998:3年間の怒涛のような活動による燃え尽き症候群に加え、『1977』の成功を再びというプレッシャーから、続く作品の曲作りは辛い時期となる。アッシュはスタムブリッジ・ファーム・スタジオという田舎に籠り、デモ作りに臨むものの、ティムはスランプに陥る。そのセッションがボツになる寸前でティムは一本の重要な電話をもらう…電話の主は他ならぬボノである。電話での会話の結果、アッシュは北アイルランドの聖金曜日協定の国民投票に賛成票を投じるキャンペーンという、今日に至るまで関わった最も重要なイベントに参加することとなる。ヒュームと政敵のアルスター統一党首デヴィッド・トリンブルがステージ場で握手を交わすという、歴史的なコンサートがベルファストのウォーターフロント・ホールで行われた。その翌週、各紙その話題で持ち切りとなり、肯定的な露出が功を奏し、協定は国民投票を通過。オーエン・モリスが再び救済役として雇われ、アッシュはウェールズのロックフィールドに戻る。その結果待ち受けていたものは混乱だった。より激しくダークな方向性を持った『ニュークリアー・サウンズ』は高い評価を得るものの、世間に戸惑いを与えた。アルバムはチャート最高位7位に留まったが、「ジーザス・セイズ」のヒット・シングルを生み、イギリスでゴールド・ディスクに認定される。 
 
1999:1月にオーストラリアでのビッグ・デイ・アウト・フェスティバルを満喫した後、現実が重く伸しかかる。1999年にバンドはどん底を経験する。『ニュークリアー・サウンズ』は期待を裏切る結果に終わり、ティムは取材を頑なに拒み失踪し、しまいには自己軽視、血、ドラッグ、セックス満載の「ナムスカル」のプロモーション・ビデオをニューヨークで撮影。ティムはビデオを「バンビを殺した」と書いたメモを添えてマネージャー宛に送る。アッシュはアメリカでのA&R担当と共にワーナーからドリームワークスに移籍するものの、レーベル・スタッフが一変したことでアメリカでのアルバム・キャンペーンは悲惨な結果に終わる。 
 
2000:6ヶ月の休暇を経て、元気を取り戻したアッシュの面々はティムの実家に集まり、1992年に全てが始まった時と全く同じ車庫で、作曲に明け暮れる。このストレスと無縁の環境で彼等は曲を量産する。30曲以上もの新曲と、リック・マックマーレイの新しいモヒカン頭(ベッカムが流行らせる前)を引っ下げ、彼等は南スペインの退廃した聖地プエルト・パヌスのヴィラに向い、教祖オーウェン・モリスとレコーディングを行う。我らの英雄達はそこで人生最高の夏を過ごし、歌は労せず生まれ、バンドの士気は天に届かんばかりに上がる。アッシュは最高傑作を作り上げるものの、世間を納得させるのは容易ではない。インターネットを通じてファンの土壌を再び固める為に彼等は配信のみのシングル「ウォーマー・ザン・ファイアー」をリリースし、草の根的な小規模なUKツアーにまず繰り出す。 
 
2001:そのツアーの甲斐あって、1月にはアッシュの2年ぶりとなるシングル「シャイニング・ライト」が初登場でチャートのトップ10入りを果たす。彼等を酷評した輩達には悪いが、アッシュは見事に返り咲いたのである。リフが印象的な「バーン・ベイビー・バーン」は、そのイカしたチア・リーダーのビデオでもって、チャートに再びロックを復活させる。報道カメラマン達の前でウェストライフのCD300枚を焼くといった絶好のタイミングで行われた派手な宣伝活動も多くの見出しを賑わす。新作『フリー・オール・エンジェルズ』は5月にリリースされ、ジャネット・ジャクソンから待望のチャート1位の座を奪う。プラチナム・セールスを記録するこのアルバムは、あと1000ポンドで破産寸前だったアッシュを間一髪で救ったのである。バンドはレディングでトリを務め、クリスマスまでワールド・ツアーに明け暮れる。『フリー・オール・エンジェルズ』からはさらに「サムタイムス」と「キャンディー」という2枚のヒット・シングルが生まれる。Qマガジンはバンドの見事な復活を讃え、「バーン・ベイビー・バーン」を年間最優秀シングルに選ぶ。 
 
2002:「ゼアーズ・ア・スター」でバンドは『フリー・オール・エンジェルズ』から5枚のトップ20を輩出。「バーン・ベイビー・バーン」はNMEの読者投票で年間最優秀シングルに選ばれ、アイルランドのホット・プレス・アワードでは『フリー・オール・エンジェルズ』が最優秀アイリッシュ・アルバムを、そして「シャイニング・ライト」が最優秀シングルを獲得する。その間、ティムは「シャイニング・ライト」で英国作曲家協会によるアイヴァー・ノヴェロ賞で最優秀現代楽曲賞を受賞する。アメリカ・ツアー中に行ったレコーディングで、シングル集『インターギャラクティック・ソニック・セヴンズ』収録用の新曲、モータウン風パンクの「エンヴィー」が生まれる。「コスミック・デブリ」と題したファン投票で選ばれたB面集ボーナス・ディスクを含むこの『インターギャラクティック・ソニック・セヴンズ』はバンドに新たなトップ5アルバムとゴールド・ディスクをもたらす。また、『フリー・オール・エンジェルズ』がダンス・レーベルのキネティック・レコーズから発売されるなどアメリカでも好調な兆しを見せる。 
 
2003:1月にアッシュは2人組フランス人監督と共に抽象的短編映画を撮る。『ラヴ・アンド・デストラクション』と題されたこのアート・ムービーはチャネル4で放送され、賛否両論を巻き起こす。ロンドンのポートベロー・ロードのエレクトリック・シネマで行われた一回限りの上映にはメディアと共に選ばれたファンも参加。前年の大半をモービー、アワー・レディー・ピース、コールドプレイ、ダッシュボード・コンフェショナルそしてセイヴス・ザ・デイの前座で費やしたアッシュは実に6年振りとなる全米ヘッドライン・ツアーを行う。ツアーは成功したものの、9ヶ月のツアー及び「バーン・ベイビー・バーン」のラジオでの盛り上げをよそにキネティックが破産し、状況は悪化する。絶え間ないツアーの成果は次の作品の曲作りに如実に出る。ロック・マックマーレイがその名前に恥じない成長を見せ、新作の方向性はよりハードでアグレッシヴなものとなる。2度のリハーサル期間を経て、曲のデモが出来上がり、スタジオに入る万全の準便が整う。フー・ファイターズのプロデューサーのニック・ラスクリネクスのあまりの熱意をアッシュも断るわけにはいかない。ニルヴァーナの『ネヴァーマインド』を生んだサウンド・シティ・スタジオに連れてこられるだけでも聖地巡礼のようなものなのに、さらにデイヴ・グロール王本人とも遭遇する。年が終わる頃には『メルトダウン』は完成する。アッシュならではのゾクゾクするポップなハーモニーとギター全開のリフを残しつつも、彼等の華奢なパンク筋を、立派なロック筋肉に増強させた素晴らしいアルバムである。 
 
2004:『メルトダウン』からのファースト・シングルの「クローンズ」がダークで泥臭いパフォーマンス・ビデオと共にネット配信限定でリリースされる。続くシングル「オルフェウス」はUKのラジオで大ヒットし、シングル・チャートで初登場15位を記録。同曲はまたアルバムのタイトル・トラック「メルトダウン」と共にインディ映画『ショーン・オブ・ザ・デッド』のサントラに収録されることとなる。『メルトダウン』はアルバム・チャートの5位で初登場し、即座にゴールド・ディスクに認定される。続くツアーは彼等にとってこれまでロンドンで行った最大規模の単独公演となり、ハマースミス・アポロに集まった観客にティムが炎上するフフライングVで敬意を表し、頂点を迎える。8月にはシャーロットが初となるソロ・アルバム『グレー・ウィル・フェイド』をダブル・ドラゴン・ミュージックからリリースする。また、ルーカスアーツの好意によりバンドはサンフランシスコにあるスカイウォーカー・ランチに招待され、製作中の「共和国軍」のセットを見学する。 
 
2005:日本での大盛況で2005は幕を開ける。ソールドアウト・ツアーは日本のアッシュ・ファンの素晴らしさをバンドに知らしめる。バンドは3月にアメリカに戻り、当時注目のブレイヴァリーとの二本立てツアーを行う。『メルトダウン』がアメリカでアッシュの新しいレーベル、レコード・コレクションからリリースされる。ツアー中、ルーカスフィルム、ルーカスアーツ及びILMスタッフ向けの貸し切りライヴをサン・ラファエルにあるILMのサウンド・ステージで行う。ルーカスアーツ制作のゲーム『リパブリック・コマンド』にアッシュの曲「クローンズ」が使われ、マークは『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』の特別試写会で再びスカイウォーカー・ランチへの招待を受ける。さぞかし有頂天になったことだろう。『コマンド』と題した4曲入りタイアップEPがツアー用にリリースされる。アッシュの『メルトダウン』期は盛大な終わりを迎える。3度目となるU2の世界ツアーのサポートを務めた後、メンバーは各自の家に戻り、6ヶ月の休養をとる。ロンドンで8年過ごした後、ティムとマークはニューヨークに移住する。 
 
2006:2月、9年もの間共に活動してきたシャーロット・ハザレイとアッシュは別々の道を歩むことに同意。運命に導かれるかのようにティムは無使用のスタジオをマンハッタンという宇宙で偶然みつける。この申し分ない部屋をアッシュは間借りすることを決意。レコーディングもリハーサルもできる自分達の拠点を持つことは彼の長年の夢である。リックが定期的にスコットランドから海を渡ってきてリハーサルを幾度か重ね、気付けば27曲もの曲の原型が出来上がっていた。スリー・ピースに再び戻ったことが刺激と量産に繋がったのである。 
 
2007:2月にバンドは新作『トワイライト・オブ・ジ・イノセンツ』から実験的に「アイ・スターティッド・ア・ファイヤー」を無料配信でリリース。アルバムからのファースト・シングル「ユー・キャント・ハヴ・イット・オール」はチャートの16位を記録し、続く壮大なバラードの「ポラリス」もトップ40入りを果たす。しかし、デジタル配信とアルバム・セールスの衰退の時代において、アルバムは苦戦を強いられる。6月にティムはアイル・オブ・ホワイト・フェスのライヴ中に『トワイライト・オブ・ジ・イノセンツ』が自分達にとって最後のアルバムになると発表。「人々の音楽の聞き方が変わった。ダウンロードの到来によって単体の曲に重きが置かれるようになった」とティムは新しいデジタルの世界で劇的な復活を約束するとともに解散の噂を否定。 
 
2008:マークはファンに「シングルのみ」の未来に向けてバンドが動いていることを明かす。バンドはロンドンのラウンドハウスで『1997』の再現ライヴを2回行い、ライヴの模様はデビュー・アルバムの特別再発盤の為に録音される。 
 
2009:マンハッタンの指令本部で12ヶ月近い作業の末、結構な数の新曲が出来上がる。究極のシングル・バンドによる究極のシングル・コレクションがいよいよ明らかになる。バンドはエヴェレスト級の創作意欲の結晶である「A-Zシリーズ」を発表。一年間で26曲というアルファベットの各文字のシングル曲を2週間毎に発表していく。無料ダウンロードによる最初の試作曲「リターン・オブ・ザ・ホワイト・ラビット」はUKのメディアから大好評を博す。真新しいエレクトロ風な無敵のアッシュ節は、活気を取り戻したバンドの野心に富んだ新しいリリース計画を象徴している。バンドのホームページ及び自主レーベルのアトミック・ハート・レコーズから発せられる独特の配信サービスはまずバラードの「トゥルー・ラヴ 1980」から始まり、直ぐにまた新たなアッシュによる斬新策「A ? Zツアー」を発表。アルダーショット(Aldershot)からゼノア(Zennor)までイギリス全土を周り、全アルファベットの都市を網羅するという、馬鹿とは言わないまでも勇気あるツアーに出るのである。あまり知られていない会場にもロックを復活させようという試みである。 
 
2010:「A-Zシングル・シリーズ」は順調に進んでおり、「G」の「イチバン」を1月に発表。と同時に春のUKツアーも発表される。1月の終わりにアッシュは再び自分達のニューヨークのスタジオに戻り、1年続くアルファベット・シングルを完成させる為にさらなる曲を完成させる。

PCサイトはこちら